世界的な抹茶不足の構造
2025年以降、海外メディアで「Matcha Shortage(抹茶不足)」という言葉が繰り返し報じられるようになりました。京都の老舗茶舗が店頭販売の数量制限に踏み切り、海外のECサイトでは高級グレード抹茶の欠品が常態化する。こうした事態の根本にあるのは、抹茶の原料である「てん茶(碾茶)」の供給が、世界需要の伸びにまったく追いついていないという構造問題です。
重要なのは、これが「緑茶全体の不足」ではなく「てん茶の不足」だという点です。日本の茶生産全体では、ペットボトル飲料向け需要の頭打ちなどにより余剰基調の品目もあります。しかし、抹茶の原料となるてん茶は、被覆栽培という特殊な栽培方法と専用の加工設備を必要とし、生産できる農家も地域も限られています。需要が集中したのは、まさにこの最も増産しにくい品目でした。
本ページでは、てん茶という原料の特殊性、取引価格の高騰の実態、そして増産を阻む構造的な制約を整理し、抹茶を調達する事業者が押さえるべきポイントをまとめます。
供給不足の影響は輸出の現場にとどまりません。国内では、抹茶を使う和洋菓子メーカーやカフェチェーンが原料の調達難と価格高騰に直面し、商品の値上げや仕様変更を余儀なくされています。ホテルや観光施設では訪日客向けの抹茶体験プログラムの原料確保が課題となり、茶道の稽古用の抹茶さえ入手しづらいという声も聞かれます。輸出需要と国内需要が限られたてん茶を取り合う構図が生まれており、「誰にどの価格で売るか」という配分の問題が、産地・問屋の経営判断として重みを増しています。
てん茶とは―製造工程の特殊性
てん茶は、抹茶の中間原料となる茶葉です。収穫前の約3〜4週間、茶園を寒冷紗などの被覆資材で覆って直射日光を遮ることで、渋み成分のカテキンを抑え、うま味成分のテアニンと鮮やかな緑色を引き出します。この「被覆栽培」こそが、抹茶特有の色と味の源泉であり、同時に生産コストと手間を押し上げる最大の要因です。
- 被覆収穫前の約3〜4週間、棚や直掛けで茶園を遮光。うま味と緑色を引き出す
- 摘採柔らかい新芽を収穫。高級品は手摘み、一般品は機械摘みで対応
- 蒸熱摘んだ葉をすぐに蒸して酸化を止める。緑色を保つ重要工程
- 碾茶炉乾燥揉まずに専用の碾茶炉で乾燥。煎茶とは異なる専用設備が必要
- 選別・熟成茎や葉脈を除き、低温で保管・熟成して品質を安定させる
- 粉砕石臼または微粉砕機で挽いて抹茶に。石臼1台の生産量は1時間約40g
図1: てん茶から抹茶ができるまでの工程。被覆栽培と碾茶炉という専用の設備・技術が必要で、煎茶からの転換は容易ではない。
注目すべきは、煎茶用の茶園や工場をそのまま転用できないことです。被覆のための棚の設置、摘採方法の変更、そして揉まずに乾燥させる「碾茶炉」の導入と、いずれも数百万円から数千万円単位の投資が必要になります。また、伝統的な石臼挽きは1台あたり1時間に約40グラムしか挽けないため、粉砕能力そのものもボトルネックになります。てん茶の増産とは、単に栽培面積を増やすことではなく、この一連の設備・技術体系への投資を意味するのです。
グレードを生む工程の違い
同じてん茶からでも、工程の掛け方によって仕上がる抹茶のグレードは大きく変わります。茶道用の最高級品は、棚掛けで丁寧に被覆した一番茶の若い芽を手摘みし、石臼で時間をかけて挽くことで、きめ細かな粒度と鮮烈な香気を実現します。一方、カフェ・製菓用のグレードは、機械摘みの原料をセラミックミルなどの微粉砕機で効率的に挽き、用途に応じた色調と価格を作り込みます。世界的な品薄が最も深刻なのは前者の高級帯であり、手摘み・石臼という工程そのものが生産量の物理的な上限を規定しているため、需要が増えても簡単にはスケールしないのです。
価格高騰の実態
需給の逼迫は、てん茶の取引価格に劇的に表れています。業界報道によれば、2025年産のてん茶は前年から2〜3倍水準への急騰が伝えられ、2026年産の入札では1キログラムあたり1万円を超える価格が付き、前年比でさらに約2倍となりました。数十年にわたり茶価の低迷に悩んできた日本の茶業界にとって、これは文字通り歴史的な価格水準です。
図2: てん茶の入札・取引価格の推移(業界報道に基づく概数)。2年で約4倍の水準に達し、2026年産はkgあたり1万円を超えた。
価格高騰は生産者の収益を押し上げる一方、川下には深刻な影響を及ぼしています。国内の抹茶加工メーカーや菓子メーカーは原料高で相次いで価格改定を実施し、老舗茶舗でも看板商品の値上げと購入制限が続いています。また、高値を狙った品質の不安定な原料の流通や、海外産粉末茶の「抹茶」表示といった問題も顕在化しており、価格と品質の両面で市場の秩序が試される局面に入っています。
価格を観測する定点としては、京都や静岡の茶市場で春に行われるてん茶入札、農協・茶市場が公表する一番茶の平均単価、そして貿易統計の輸出単価(金額÷数量)が実務的に有用です。輸出単価は2024年から2025年にかけて明確に切り上がっており、原料価格の上昇が最終製品価格へ転嫁されていく過程を数字で追うことができます。
皮肉なことに、ブームの陰で製茶業者の廃業は増加しています。恩恵を受けるのはてん茶を持つ産地・事業者に限られ、煎茶中心の事業者は消費減退と設備老朽化に直面したままです。「抹茶バブル」の裏で業界内の格差が広がっている点は、業界全体を見るうえで欠かせない視点です。
生産者経営への影響
てん茶を生産する農家・法人にとって、今回の高騰は長年の茶価低迷を一気に取り返す追い風となっています。一番茶の単価上昇は茶業経営の収益構造を大きく改善させ、これまで困難だった設備更新や規模拡大への投資余力を生み出しました。農業経営の調査でも、てん茶比率の高い経営体ほど収益改善が顕著という傾向が報告されています。ただし、肥料・被覆資材・燃料・人件費の上昇が利益を圧迫している点、そして高値がいつまで続くか不透明な点から、産地には「バブルを前提にした投資への戒め」も同時に広がっています。歴史的高値の恩恵をどう持続的な生産基盤の強化につなげるかが、産地経営の分水嶺になっています。
増産を阻む4つの制約
これほどの高値であれば増産が進みそうなものですが、てん茶の供給は簡単には増えません。制約は大きく4つに整理できます。
第一に「時間」です。茶樹は苗を植えてから安定して収穫できるまで4〜5年を要します。既存園をてん茶向けに転換する場合でも、被覆設備の導入や栽培技術の習得に数年単位の時間がかかります。今日の需要に対して、供給の応答は最短でも数年遅れになるのです。第二に「設備」です。前述の碾茶炉は生産能力に限りがあり、増設には大きな投資と稼働率の見通しが必要です。
第三に「担い手」です。日本の茶農家は2000年から2020年の間に約5万戸減少したとされ、高齢化も深刻です。被覆栽培は労働負荷が高く、人手不足が増産意欲の足かせになっています。第四に「気候」です。近年の記録的な猛暑や霜害は一番茶の収量を不安定にしており、2025年産でも一部産地で減収が報告されました。気候変動は今後も供給の変動要因であり続けます。
こうした制約に対して、産地と行政の対応も始まっています。農林水産省はてん茶への改植・新植や碾茶炉の導入を支援する事業を拡充し、各県でも輸出向け茶園の団地化や被覆設備への補助が動き出しました。鹿児島・静岡・九州各県では煎茶からてん茶への転換面積が着実に増えており、全国のてん茶栽培面積はこの10年でおよそ倍増したとされます。それでも、需要の伸びのスピードには届いていないというのが現在地であり、新植分が本格的に収穫期を迎える2020年代末までは、タイトな需給が続くとみられています。
- 時間の制約: 茶樹の育成に4〜5年。転換にも数年単位のリードタイム
- 設備の制約: 碾茶炉・被覆棚・粉砕機への大型投資が必要
- 担い手の制約: 茶農家は20年で約5万戸減。高齢化と労働負荷が壁
- 気候の制約: 猛暑・霜害で一番茶の収量が不安定化
調達側への示唆とまとめ
抹茶を原料として調達する事業者にとって、当面の市場環境は「高値・品薄の長期化」を前提に組み立てる必要があります。産地・生産者との複数年契約や産地分散、グレード設計の見直し(用途に応じたカフェグレードの活用)、代替調味の検討など、調達戦略の柔軟性が問われます。新植・転換分が市場に出てくるのは早くて2020年代末とみられ、需給の本格的な緩和にはまだ時間を要するというのが業界の一般的な見立てです。
具体的な調達の工夫としては、最上級グレードに固執せず用途に応じてカフェグレードを設計し直す、一番茶だけでなく二番茶原料の活用可能性を検証する、宇治・西尾・鹿児島など複数産地に調達先を分散する、収穫前の契約で数量を確定させる、といった選択肢が挙げられます。また、最終商品の設計側で抹茶の使用量や配合を見直し、限られた原料で商品価値を保つアプローチも、菓子・飲料メーカーでは現実の対応として広がっています。
一方、供給側にとっては、被覆栽培・碾茶加工への投資回収が見込みやすい歴史的な好機でもあります。各産地では行政の支援策も動き始めており、生産構造の転換が進むかどうかが、今後5年の業界の姿を決めることになるでしょう。産地ごとの対応の違いは「主要産地の現況」で、供給を担う企業の動きは「主要プレイヤーの動向」で詳しく報告しています。